私には妙に気の合う同僚が何人かいる訳だがそのうちの一人と先日、非常にくだらない話題で盛り上がってしまった。
会社の先輩には、「この人なんでこんなにたくさんの課題を背負い込んでるんだろう」と不思議になる人がいる。あのあれね、無駄に悩んでるだけの人じゃなくて、重要なんだけど誰もやらないような仕事をいつの間にか全て対応しちゃってるようなとても頼りになるけどなぜか出世しない幸薄めの大先輩ね。
でまぁ、私もその同僚も割とその気配があるので、そうはなりたくないと考えつつも「誰も気付かないこと」「気付いてて困ってるけど誰も手も口も出さず触れられないこと」とか見つけると割と黙ってられないタイプで、ついつい口にしてしまったり問題提起なんかしちゃって、結果それを担当することになりがちなタイプ。その大先輩は言い出しっぺになる印象はないけど、誰も触れないような仕事をたくさん抱えてる。楽しそうではないけど自信と誇りを持って仕事をしている。
だけど世の中にはそういう頼りになる人もいれば、そういう人を使って成果を報告するだけの役割とか、企画提案だけやって後ヨロシクと上手く手離れする人とか、最初から最後までこっそり進めていつの間にか成果にしちゃえる人とか、いろんなタイプがいるよねぇと思う。それを否定したい訳じゃない。新たな発想から想像もつかないような新しいアイデアを産むのも仕事、それをカタチにするのも仕事。
「まだ誰も見たことも無い美味そうなモチを絵に描くこと」
「絵に描いたモチをちゃんと食える餅に仕上げること」
この2つはどちらも必要。それぞれに専門性があって能力の質が違うし修行の仕方も全然違う。
ただ、私の考えは「餅は餅屋で食うのが一番美味い」
口だけで手が動かない人の話はどうもリアリティが無いし、過去の武勇伝を語られても今は何が出来るの?何に貢献出来るの?とか思ってしまう。こんなとこでも気の合う同僚との話である。
話を戻し、とても頼りになるけどなぜか出世しない系、会いに行けるレジェンド系の先輩は心理的距離が近い。そして話を聞いてくれる。とても頼りになるし沢山の仕事を処理してきた分、事例や経験談も豊富だし、リアリティのあるアイデアをくれることが多い。とても頼りになる。
故に周りからの信頼も厚いけど、仕事が集まりがちだし押付け依頼や組織強制指示にされることも多い。そういう自分の意図に関わらず仕事が集まってきてしまうってカルマ背負ってるよね。という話である。
同僚も私もそこまで高みに昇ってないものの、地雷を踏み、困りごとを掴み、大先輩に教えを請い助けられながら、事案を処理してきた体験が増えている。多分、同世代よりは事例多めである。相談を受けることも増えてきてる。
気付けばいつの間にか俺たちも「幸薄め系」まっしぐらなんじゃねぇか、と危惧している。
そこで、なんでこんなことになっちまうのだろう?と議論に至った訳である。
仕事上の問題にはその原因があって、その原因を解決するためにどうにかすべき課題が生まれる。
この課題を解決するためにタスクが生まれ、このタスクには期限が付き、ノルマとなる。
ノルマはこなさないとお給料が上がらない。上がらないはおろか下がることだってあるし、あまりに処理能力が低いと左遷やリストラなんてこともあり得る。
一方で、自分で自分に課すノルマもある。
来月までに5キロ痩せる、来年までに100万貯金する、2年後には資格を取る、とかとか。
これらは自分がなりたい自分になるために課しているもので、昇進や進退、社会的にも会社的にも与える影響は全くない。好きにすればよろしい。
この仕事と私事の中間で「会社内ではこう在りたい自分」を目指すための自分なりの決め事もノルマなのかもしれない。
私の場合は、
・困ってる人の話は出来るだけ聞く(聞くだけは必ず聞く)
・期限を守る。遅れる時は遅れる前に連絡する。
・無意識な嘘をつかない。そのために↓
・自分に出来ること/出来ないこと/出来ないけど挑戦することをはっきりさせる
・人からの依頼は↑に応じて、受ける/受けないは出来るだけ早く伝える
と決めている。これが全てではないが、私は「人を振り回す」ことがあまり得意ではないのだ。
同僚にも同僚なりの決め事(ポリシー)があってそれを自分にノルマとして課してる。
きっと頼りになる先輩もそういうノルマを課し果たすことで自信を持って仕事をしてるんだと思う。
自分で決めたノルマを果たし「在りたい自分」になった結果、望まない業務ノルマが集まってくるのである。なんとも因果なものである。
はてさて自分ノルマは意識して自分で決めている訳だが、私はなぜこう在りたいと思ったんだろうか。
私の場合は「人を振回したくない」ということだ。これは無意識のうちに嫌悪していることだ。
SNSで最近よく見かける綺麗な人も、ボディメイクして、エステに行って、食事制限して、写真を撮って加工して、投稿して。きっとそれが在りたい自分で目指すんだから筋トレも食事制限も自分ノルマを課してるんだろう。そしてその在りたい自分のためのノルマと同時に望まないノルマも背負ってるはず。
美味しい食事を我慢し、ジムやエステのお金を稼ぐ必要もあるだろう。時には望まない水着の撮影でお金を稼がなきゃいけない時もあるだろう。
が、食べる幸せよりも、そうまでして美しい自分をなぜ選んだのか?
同じくトレーニングやボディメイクをするのになぜお相撲さんは目指さなかったのだろうか?
このように無意識的に選択していることがある。これもきっとカルマなんだろう。運命なんだろう。産まれた星の宿命なのだろう。
などと思うのである。
さて、カルマって何よ?とコトバンクで調べると、
仏典などの日本語での解釈では「業」という意味合いで使われる。サンスクリット語では「行為」、または行為の結果として蓄積される「宿命」と訳される。カルマは「過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる。」という因果応報の法則のことであり、インド占星術の土台であるヴェーダ哲学の根底に流れる思想である。
引用:https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9E-468275#w-1491832
とのことらしい。まぁ宿命という意味で、今までの私の解釈となんとなく合っていることにする。
今度は「カルマ 解消」と調べると途端に増える胡散臭い文章。大好物である。
そんな大好物をいくつか読んでると、以下の文に出会った。
質問者 この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマを、身体が存在する間に克服することができるでしょうか?
引用:あるがままに ラマナ・マハルシの教え
マハルシ できる。カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。自我がその源の中に溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマも生き残ることはできない。それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。
何を言ってるかわからない。さっぱりわからない。実に面白い。
この文に惹かれてしまい、熱い議論を交わしてしまったのだ。
そして二人で導いた結論が、冒頭から言っていたノルマとカルマに帰結したことに感激したのである。
まずプラーラブダ・カルマなるもの、もうこれはそういうもんなんだと定義し調べない。面倒。ごめんなさい。
質問者さんは、身体が存在する間にカルマを克服することができるのか?と問うている。
文章から察するにこれは常識ではとても大変なことなのだろう。よくわからないけど。
その常識を一蹴するマハルシ師の御言葉
「できる」
すごい。シビレる。震える。
だが、ここからが問題だ。
自我と呼ばれる行為者は身体と真我の間に生じていて、カルマは行為者に依存するらしい。
きっと身体は普通の肉体のことで物理的な魂のハコ、真我は無意識に全体共通になってる公序良俗とか欲望とか愛情のことで、自我は意識と無意識を持ったまさに自分自身・個性・アイデンティティ・こう在りたい自分、のようなことだと捉えるとしっくりきた。
自我がその源に溶けて姿を消す=つまり自分の個性を消せばカルマは無くなるそうだ。
たまに聞く「宇宙と一体になれ」というやつか、自我を捨てよと同義か。確かに。なるほど。
つまり、カルマで苦しんでいる人は、意識か無意識にやってしまってる「自分自身への決め事、目指してる在りたい自分」を捨てちまえ、そしたら楽になれるぜ。的なことを言っているんだと解釈し、妙に納得してしまった。
私はいつの間にか人を振回したくないから決め事を作り、自分で自分に呪いをかけてしまっている。
そういう呪いを捨て、なりたい自分を諦めよ。と。確かにこれなら楽になれるわ。
とまぁ、ここまで議論を繰り広げた上で、
「なりたい自分を目指し夢に向かって努力し汗を流してる人に魅力を感じるよね。自我を失った人間なんて死んだも同然」と思う訳だが、魅力ある人になりたい=これもまたカルマなのである。
さて、困ってる人を助け、助けられる技量を磨き、人の役に立ちたい。
せめて、嘘をつかず、果たせない約束はせず、期待させてる他人を無駄に振り回さない。
こういう姿を目指すこともカルマであり、苦しむ未来が待っているだろうがそういう何かを目指す人に人は魅力を感じ、買ってくれる(雇ってくれる)から、面談ではこういう質問がされるのであろう。
カルマを誤解してしまってるかもしれないが、私にはとてもしっくりハマった結論でした。
という訳でここまでお読みいただき、ありがとうございました。